公開日 2025年11月04日
更新日 2025年11月05日
藤諒健さん

中学時代に見た箱根駅伝のランナーに心を動かされ、走ることの魅力にのめり込んだ藤さん。高校・大学で競技を重ね、社会人となった今は徳島駅伝・名東郡チームの選手兼監督としてチームを率いている。自身が味わった“走ることの苦しさ”と“楽しさ”の両方を知るからこそ、まず“走ることを好きになる”ような指導を大切にしているという。陸上の経験や向き合い方、徳島駅伝への想いについて話を聞いた。
スポーツに明け暮れた小・中学生時代
読書やゲームが好きで、どちらかといえばおとなしい子どもだったという藤さん。小学生のころは「大好きな兄についていきたくて」という理由で野球部に入り、友人が多く所属していた陸上部にも参加していた。中学に進学してからは、外部チームで野球を続けながら学校ではソフトテニス部に所属。平日の朝は中学校駅伝に向けた走り込み、夕方はソフトテニスの練習、そして土日は朝から晩まで野球。スポーツ三昧の毎日をエネルギッシュに楽しんでいたという。
一人のランナーとの出会いが人生を変える

転機が訪れたのは中学3年の冬。テレビで見た箱根駅伝の中で、藤さんの心を強く揺さぶったシーンがあった。
「山登りの区間で、柏原竜二選手が苦しそうな表情を浮かべながらも、次々と選手を追い抜いていく姿に心を奪われました。人を感動させる走りって、こんなにもすごいんやって気づいたんです」。
この体験がきっかけのひとつとなり、進学先の『城南高校』では陸上部への入部を決意。専門は800mの中距離。4×400mリレーにも力を注ぎ「四国高校総体」では800m3位、4×400mリレー2位とどちらもインターハイ出場を決めた。
「顧問の先生がとても厳しくて、つらいことの方が多かったかもしれません。でも、あの環境があったからこそ、今も続く仲間との絆ができたんだと思います」と、当時を穏やかに振り返る。
走る楽しさに目覚めた大学時代

大阪大学工学部に進学後も陸上を続けた藤さん。130〜150人という大所帯の陸上部で、800mに加えて1500mにも挑戦。「関西学生陸上競技対校選手権」では800m5位、1500m8位の成績を修めた。
「高校の頃よりも自分で考えて練習に取り組むようになりました。心の底から陸上が楽しいと思えるようになったのは、大学3〜4年生から。調子が良いとアドレナリンが出てランナーズハイみたいな感覚になります。それがとっても気持ちよくて。関西インカレや七大戦といった対校戦があって、毎年すごく盛り上がって、横の繋がりができたのも大きかったかな」。
選手として、指導者として関わる徳島駅伝

徳島駅伝への初出場は大学1年のとき。以来7年間、毎年声がかかり、大学時代は大阪で練習を積みながら年末年始に帰省し、名東郡の代表として出場を続けた。大学院修了後は徳島に戻り『日亜化学工業』に就職。同年の出場時に前監督から「来年から監督やってよ」と声をかけられたという。「正直“仕方なく”という気持ちが強かったです」と苦笑いする藤さん。しかしその表情の奥には覚悟と責任感がにじむ。
走る楽しさを次の世代へ

現在の名東郡チームは、参加人数が少なく、中心は中学生。練習は週1回、小学校のグラウンドで約50分。限られた時間の中で、藤さんは“走る楽しさ”を伝えることを何より大切にしている。
「僕としてはまず走ってくれることが本当にありがたいです。とにかく楽しんで走ってほしくて、だからこそ中学生に対してはタイムが少しでも上がるように工夫してあげたいし、なかなかできない経験でもあるので良い思い出になったらいいなと思います。あわよくば、高校に行っても陸上を続けてくれたらうれしいですね。『走るのが嫌だった』と思ってほしくないので、練習内容もいつも考えながら組んでいます」。
高校時代に経験した厳しさ、大学で知った楽しさ。その両方を知り、現在も走り続け、2024年開催の「徳島県選手権」では優勝を果たすなど、競技者としても第一線を走り続けている藤さんだからこそできる指導がある。
「他にやる人がいないから、自分がやるしかない」と語る姿には、静かな使命感が宿っているように見えた。箱根駅伝で心を動かされたあの日から十数年。今度は藤さん自身が、次の世代の背中を押す存在となった。 地元で育ち、地元に戻り、地元の子どもたちに“走る喜び”を伝えていく。その温かなまなざしが、名東郡の未来を静かに照らしている。

