佐那河内村の朝の顔

公開日 2022年03月29日

更新日 2022年03月29日

高根哲さん

45年間、朝3時起きの生活

佐那河内の朝の顔は、高根哲さんだと言っても過言ではないだろう。村内には牛乳屋さんが二軒あるが、高根さんが営む『森永牛乳 嵯峨販売店』がその内の一つ。高根さんが17歳の時に父の三郎さんがはじめた牛乳屋さんを31歳で受け継ぎ、45年経った今も続けている。牛乳を配達するだけでなく、誰かと顔を合わせると笑顔で挨拶を交わし、たわいもない話をして次の家へ向かうのが春夏秋冬、村の朝の風物詩だ。仕事の日は朝3時に起きる生活を45年続けている高根さん! その忍耐力と笑顔の裏側には、波瀾万丈な日々があったという。

 

無職で迎えた成人式

高根さんは工業高校卒業後、テレビやラジオに使う真空管を製造する京都の会社へ就職。設計士として採用されたが、まずは現場からということで1年目は製造の仕事に従事した。ところが、就職して間もなく、立っているのが困難なほどの腰痛にみまわれ、やむなく退職。実家へ戻って療養することになった。幸いにも腕のいい先生と巡り合い、腰痛は半年ほどで完治したが、当時を振り返って「成人式の時は仕事をしていなくて、治ってからも1年くらいふらふらしていた。今思うと今までで一番しんどい時期だったかな」と高根さんは語る。その後、徳島に本社がある機械製造の会社に就職。7ヶ月ほどで東京の営業所に転勤になり、アパートは用意してくれていたので布団一つで上京した。大都会での生活がはじまると同時に、高根さんの超がつく多忙な日々が幕を開けることになる。

 

全国を飛び回った20代

その昔、ヤクルトがビン入りだったことをご存知だろうか。1968年、ヤクルトの容器はプラスチック製になったのだが、それに大きく関わっていたのが高根さんが勤めていた会社だった。ヤクルトと提携し、プラスチックの容器に印字をしてその容器に液体を詰め、キャップをするところまでを1台でできる機械を製造していた。高根さんはその機械の修理や調整をするという重要な役割を担っていたという。引っ越して次の日に初めて出社すると、さっそく明朝一番の電車で盛岡の工場へ行くよう命じられた。仕事や職場環境に慣れる暇もなく、高根さんはなんとか盛岡へ到着。修理に2日かかり急いで東京へ戻ると、明朝一番の電車で鹿児島の工場へ行くよう伝えられた。当時、東京―新大阪間の新幹線は開通していたが、地方へ行くとなると今のようにスムーズにはいかない。新幹線も高速道路も携帯電話もまだまだ普及していない時代に、高根さんは電車と飛行機と車で地方を飛び回った。北海道の釧路や旭川、青森、酒田(山形県)、大館(秋田県)、金沢、静岡、名古屋、伊勢、京都、大阪、佐賀など、どこへ行ったか分からなくなるくらい、目まぐるしい日々を21歳から28歳までの約7年間おくることになる。「濃密な時間を過ごしたと思うわ。日本で走っていない国道はないんちゃうんで。東京の道も目を瞑って走れるくらい熟知しとるな。今でもどこへ行くのもへっちゃらじゃ!」と言う高根さんからは、一つひとつの現場はもちろん、移動する時間も楽しんでいたのが伝わってきた。

 

牛乳屋さんになっても活きる20代の経験

徳島へ帰るきっかけは父・三郎さんの体調不良だった。ちょうどその頃、会社が海外進出をはじめたタイミングだったこともあり、このまま続けていたら父の面倒をみることができなくなるかもしれないと、思いきって退職を申し出た。必要とされていた高根さんはすぐに辞められることはできなかったが、徳島の本社へ戻ることができ、31歳で実家の跡を継ぎ、牛乳屋さんになった。東京の生活は夜が遅かったため、はじめたばかりの頃は朝3時起きの生活に慣れるのが大変だったという。当時の配達軒数は約120軒。雨の日も雪の日も休みはなく、配達の途中に大雨で潜水橋が沈没し、水が引くまで帰れなくなったこともあった。営業は一切したことがないが、一番多いときには340軒も配達していたという。休みは日曜だけで、週6日は3時に起きて朝に200軒、夕方に100軒ほど配達する。来る日も来る日も忙しい日々は続いたが、20代の経験のおかげでしんどいと感じることはなかった。若い頃の苦労は買ってでもせよ、とは正にこういうことなのだろう。

 

何事も長く続けられるのは苦労じゃないから

高根さんは徳島に帰ってきて奥さんと出会い結婚。二人の息子さんに恵まれた。長男が小学4年生から少年野球をはじめたのだが、5年生のときに当時の監督が辞めてしまい、高校の時に野球をやっていた高根さんが代わりに監督をやることになった。そこから40年、今も佐那河内の少年野球の監督は高根さんだ。他にも、すだち連の連長を14年務め、現在も使われている男踊りの法被(はっぴ)のデザインも手がけた。一番忙しいときは、PTAの会長、少年野球の監督、すだち連の連長を同時に務めていたというから驚きだ。さらに、牛乳配達で培われた土地勘が頼られ、郵便配達の手伝いをしていた時期もあった。「3時に起きて牛乳配達を終えてかたら、9時半に郵便局へ行って仕分けをして配達、夕方の4時にポスト集荷をして野球の練習へ行く、そんな生活が12年続いたかな」と振り返る。聞くだけで大変なのは想像できるけれど「苦労やいうんはひとつも思ってない」と話す高根さんの真っ直ぐな眼差しが気持ちいい! 何でもできる秘訣は、“自分はできないものはない”と思っているからだそう。大工仕事も社交ダンスも料理も球技も得意な高根さんが唯一苦手なのは、将棋と囲碁だとこっそり教えてくれた。

 

子どもを信頼するということ

普段のほがらかな性格からは想像もつかないが、野球の監督になると厳しい指導者になる高根さん。これまで小さな大会では優勝3回、準優勝7回という功績を残している。大会でベスト4以上に入ると、USJや当時はまだあった大阪のエキスポランド、神戸のポートピアランドなど、高根さんと子どもたちだけで行くご褒美旅行をプレゼントしていたそうだ。「神戸や大阪に行くときは、(淡路島の)岩屋から船に乗せて、神戸の舞子から電車で移動するようにしたら、自分で切符を買う練習になるでぇな」と高根さん。7年前には45チームが参加した大きな大会で準優勝し、主力だった6年生6人をUSJへ連れて行った。USJでは集合場所と時間だけ決めて、あとは子どもたちだけの自由行動。それでもちゃんと時間前に集合場所に来たので感心したという。きっと高根さんから信頼されているのを感じていたから、子どもたちは約束を守ることができたのではないだろうか。普段の生活ではできない旅の一つひとつの経験が、大人になっても心に残っているのは言わずもがなだ。

村の人を見守る大きな存在

大人でも子どもでも、気を遣うことなくしゃべれる高根さんの人懐っこい性格は、牛乳配達の仕事にうってつけだ。人付き合いで気をつけていることは、相手が誰であろうと分け隔てなく話すことだと言われて納得する。そんな高根さんが配達へ来るのを楽しみにしているお客さんは多く、一人暮らしのおじいさん・おばあさんにとっておしゃべりはもちろん、次の日の朝も牛乳がそのまま残っていたり、牛乳瓶が出ていなかったら何かあったのかもと気付いてもらえる見守りの役割がいることを心強く思っている。高根さんに仕事を辞めるタイミングについて尋ねると「お客さんがいい人ばっかりやけん辞める理由がないでえな。免許の更新次第かな。動けるうちは続けたい」とたのもしい言葉が返ってきた。全国を飛び回っていた高根さんがもう一回行きたいところは、岩手と秋田、両県にまたがる八幡平温泉郷だという。フットワークの軽い高根さんは、たまの自分へのご褒美にゆっくり温泉へ出掛けたりしながら、これからもゆるぎない佐那河内の朝の顔として、おいしい牛乳と明るい笑顔を配達してくれるだろう。