いそばあちゃんの教え

公開日 2021年03月31日

更新日 2021年03月31日

冨長伸司さん

 

いつ死んでも悔いはない

「いつ死んでも悔いはないと思っている。一日一日、積み重ねているから。」まっすぐ前を見て、冨長伸司さんは笑った。佐那河内で生まれ育ち、皆から「しんちゃん」「しんちゃん」と慕われている。いつ死んでも悔いはないと、こんなにも真っ直ぐ言える冨長さんは、一体どういう人生を歩んできたのだろうか。

 

 

いそばあちゃんの教え

根っこにあるのは、今まで出会った人達やしてきた経験への感謝の気持ちだ。「色んな人に助けられたし、色んな挫折も実になっている」と話す。中でも、一番影響を受けた人は、曾祖母のいそばあちゃんだそう。家族で農業を営んでいた冨長家は、両親も祖父母も毎日忙しかった。特に冨長さんが生まれた1968年(昭和43年)は大寒波に見舞われた年で、村の基幹産業であったみかんの木が大量に枯れてしまい、新しい作物の栽培へ乗り出したり、ハウスを使用した施設栽培も導入したり、茶の間で寝て茶の間で起きるような日々だった。忙しい両親の代わりに、いつも傍にいて面倒を見てくれたのは明治34年生まれのいそばあちゃん。「大人になるということは、我慢ができるということ」「一生勉強しなさい」「器を大きいしなさい」「潔くいなさい」いそばあちゃんが残してくれたいくつもの言葉が、冨長さんの原点だ。

悪いことした時、両親や親戚には責められたけど、いそばあちゃんはかばってくれた。「この子が悪いんじゃない。見てあげてなかったあんたらが悪い。気づかなかった私も悪い。」の一言に、心がほぐれた。戦中戦後を生き抜いたいそばあちゃんは、苦労が多かった分、愛情の深い人だった。その愛情を一身に受け、教えを守り潔く生きてきたから、今の冨長さんがあるのだ。

 

 

アメリカでの経験

子どもの頃から野球少年だった。後にラグビーに転向し大活躍したが、怪我のためラグビーでの大学進学を断念せざるを得ず、農業大学校へ進学した。就職も決まっていた卒業時、このまま就職していいのだろうか、ふと思った時にたまたま目に入った「農業研修」のポスター。両親に相談もせず申し込み、単身アメリカへ渡った。2年間の語学や農業の研修中に出会った仲間とは、今も交流があり、いつも情報や刺激をくれる、大事な財産だ。

アメリカで一番長くいたのは、ベンさんという日系3世の方が営む農場だった。ベンさんも戦争中に捕虜になったり、アメリカで差別を受けたり苦労の多い方だった。「男は勝ち気でいろ」と言っていたが、面倒見が良く、人の繋がりを大事にする優しい人だった。冨長さんが「目標になるような人がいっぱいおる。」と言うように、人との出会いに恵まれてきた。

 

 

450年以上続く旧家を継いで

アメリカから帰国した後は、通訳などの仕事に就いていたが、いそばあちゃんの「後を継ぐように」との遺言に従って、29歳の時、450年以上続く旧家の冨長家を継いだ。そこからいちご農家としての人生が始まり、佐那河内村の誇るブランドイチゴ「さくらももいちご」を栽培している。父母は、40年間いちごを栽培しているベテランだ。嵯峨地区に、以前は十数軒あったいちご農家も、今は冨長家だけになってしまった。北向きの斜面地のため日当たりは悪く、車は入らないなど条件は悪いが、いそばあちゃんの教えに従って、「潔く」やり方を工夫している。農業は、天候から、病害虫から、動物から守る仕事だ。手を抜かなければ、その分応えてくれる。自然の中に身をおいて、いちごの出来と天候の関係性などの理由がわかっていく楽しさがある。

 

 

植物に教わった子育て

妻の理恵さんとは、アメリカでの農業研修中に出会い、2人の息子にも恵まれた。次男がこの春に就職し、ついに子育ても終わりだ。自宅が職場だから、子供と一緒に過ごす時間は長くとれた。どっちが子どもかわからないくらい一緒になって遊んだし、野球も熱心に指導した。子育ては楽しかったと、充実感いっぱいに目を細める。「子どもはよく育ってくれた」と。子育てについては、植物から学ぶことも多かった。植物は喋らないからこっちが寄り添っていかなければならない。いちごの気持ちを知るために、一日ハウスの中で過ごしたこともあるのだとか。子育ても、自分から歩み寄って、子どもの変化を掴む努力をしてきた。手を入れるほど応えてくれるのは、子どもも植物も同じだ。

 

 

地域での活動

農業、子育てと忙しい合間に、父母や妻、家族の理解もあって、「地域づくり」の活動もしてきた。地域の人達と共に、スポーツクラブを立ち上げに関わったり、小中学校の新校舎をプロポーザル方式で行うよう進めたり、未来塾という勉強会を主宰したりしてきた。そして、今は佐那河内村消防団の副団長兼機動隊長という大役を担っている。佐那河内には、消防署がないため、村内で火事や災害があった場合、消防団が最前線に立って活動に当たる。今後、南海トラフ地震など大きな災害が起こることも予想されている。佐那河内の安全・安心はもちろん、団員の命を守らねばならない副団長の責任は重く、いつでも備えて晩酌も控えるようになった。村の人達には、迷惑をかけたことも怒られたこともあるし、子どもの頃からお世話になっている。少しでも恩返しになれば、という気持ちでいる。

 

 

急がなくていい

地域で活動する際に、同級生の存在は大きい。保育所から中学校まで一緒だった幼馴染が約45人いる。家族より長い時間一緒に過ごした兄妹みたいなものだから、どこまで言ったら怒るとか、お互いなにもかもわかっている。大企業に勤めていたり、学校の先生になっていたり、それぞれの道で頑張っているが、村に残っている仲間も多い。少子高齢化の進む中、佐那河内の子どもの数も減っている。2021年(令和3年)度の小学校新一年生は6人だ。同級生が45人近くいた時代が羨ましく、寂しさすら覚えるが、冨長さんは言う。「時代の変化に無理に追いつこうとする必要はない。必ず元に戻る。そうやって今まで続いてきた。」いそばあちゃんの教えを原点に、たくさんの人との出会いを大事にし、急がず、だけど着実にやるべきことをやる。こうして、今日も悔いのない時間を積み重ねていくのだ。